東京から南に約30キロメートルに位置する横浜は、美しい港町です。横浜港は、日本が鎖国を終えて世界への扉を開くことを決めた1859年に開港しました。当時は人口100人ほどの小さな漁村にすぎませんでしたが、横浜はそれ以来、外国からの新しい文化、技術、情報を盛んに取り入れていき、国内でも屈指の近代都市となっていきました。
横浜市は、港の開発を通して日本の近代化を後押ししてきましたが、横浜港では、日本とインドとの貿易も行われていました。中でも生綿は、インドから輸入された主要品目の1つでした。やがて1960年代から70年代にかけて、横浜は東京のベッドタウンとして、人口が爆発的に増加し、これにより交通渋滞、大気汚染、水質汚染、廃棄物の増加など、都市特有の深刻な課題に直面することになりますが、包括的な都市開発計画の実施や、社会インフラの構築により、徐々に解決されていきました。こうして横浜市は人口370万人の大都市となるまで大きく成長しました。横浜市は、基礎自治体としては日本一の人口数を誇ります。横浜には有名な観光スポットがたくさんありますが、そのひとつとして、生糸取引で財を成した原三渓が造った日本庭園、三渓園があげられます。1916年、インドの著名な詩人であり哲学者としても知られるラビンドラナート・タゴールが、三渓園にある伝統的な旅館に数か月間、滞在しました。このほかにも、みなとみらいエリア、中華街、大さん橋など、魅力的な観光地は多くあります。
1965年、当時横浜に在住していたインド人コミュニティの尽力が実り、横浜市とムンバイ市は日本とインドとの間では初めてとなる姉妹都市協定を締結しました。これまで両都市 間では、さまざまな文化交流イベントが開催され、良好な関係が築かれてきました。また1967年6月には、姉妹都市協定の調印式に出席するため、ムンバイ市長夫妻が横浜を訪問しました。姉妹都市協定調印の目的は、文化、技術、ビジネス、教育、などの分野で両都市間の交流を促進することでした。1985年5月には、姉妹都市協定から20周年の節目として、ムンバイから2頭の象が横浜に贈られました。また、30周年にあたる1995年9月から11月にかけては、両都市からの使節団がお互いを訪問し合いました。
姉妹都市協定の調印以来、行政間だけではなく市民グループも含めた視察訪問団の継続的な交流もありました。協定締結から節目の50周年にあたる2015年には、記念式典が開催されました。2015年6月、ムンバイのスネハル・アンベカル(Ms. Snehal Ambekar)市長が横浜に招待され、横浜市の林文子市長と会談し、50周年の祝典に参加しました。続いて2015年11月には、フォート地区のホテル「タージ・マハル・パレス・アンド・タワーズ」で50周年記念行事を開催し、横浜市議会議長が率いる横浜市の公式代表団が出席しました。